中国の次の革命 ギ・ソルマン

 ギ・ソルマンの「幻想の帝国」の邦訳が最近出版されたが、ソルマンが「ファーイースタン・エコノミック・レビュー」(7月3日)に「中国の次の革命」と題するエッセイを載せている。ソルマンは豊かな都市と貧しい地方の間の階級闘争は厳しいものになるであろうと予測している。以下拙訳。

 中国共産党の指導者たちは、中国は歴史的・経済的に特殊なケースであると世界に信じてもらいたいと思っている。われわれは中国を人類の進化の普遍的なルールに基づいて理解すべきであろうか?それとも、この異なるとされている文明で起きるすべてのことについて、中国中心の解釈をしなくてはならないのか?私には、中国はもちろん、他の国と同じように異なっているが、西洋で既に起きたよく知られた周期をたどるものと思われる。したがって、中国を理解するためには、孔子よりアレクシス・ド・トクヴィルのほうが今日において参考になるであろう。

 「アメリカのデモクラシー」の後に書かれた「旧体制と革命」(1856年)で、トクヴィルはフランス人がより豊かになり、自由になるにつれて、どのように王制に敵対的になったか説明した。彼はこの逆説を、高まる期待の周期として正しく描いた。フランス人が貧しく、抑圧され、絶望している時は、あちこちでの地方の反乱は除いて、彼らはおとなしいままで、国王を支持した。

 18世紀末に向かって、豊かになり、政権がより寛容になると、フランス人は落ち着きがなくなった。人々が自由を味わい始めると、しめつけに我慢がならなくなる。

 これが今日、中国で十分ありえることである。

 知っての通り共産党は、中国が新たに比較的に豊かになったのは、共産党の政治的独占と啓蒙的専制による、と主張する。確かに、中国人は今日、毛沢東政権の時より自由である。数千人の反体制派の人々が監獄に入れられているが、昔の労改とは比べものにならない。中国では今では個人の意見を表明することは許される。反党組織を作ろうとしない限り、党を批判することも許される。

 中国に通じた中国人以外の観察者は、中国人はこんなに良かったことはなかったと結論を下す。したがって、安定と共産党の独占が優先すべきであると。もしそうなら、チベットで、地震の後での四川で、少女が殺された後での貴州で起きた集団的反乱をどのように説明するのか?
トクヴィルはそうした別々の出来事の間の関連を理解するのに役立つ。中国人はこれまでになく良くなったがゆえに、ますます不満を抱いている。彼らは党に感謝しないであろう。党を排除した方がいいが、どのように党を代えるか誰も知らない。

 これは革命前夜のフランスの状況に似ている。当初はフランスの哲学者と新しい政治指導者は、王制は良くなりうると思った。憲法が採用され、法の支配が宣言された。しかし、王制は崩壊した。なぜなら、専制政治は容易には良くならないからである。

 同じことが中国の共産党にも言える。恐らく、高まる期待を満足させるのに十分早く進化することはできない。権威的政権は柔軟にはならない。抵抗するか、崩壊する。旧体制の不可避的崩壊の後に続いたフランス革命は、トクヴィルにとって、歴史的必然とは見なされなかった。遺憾な(流血の)出来事と見なされた。トクヴィルによれば、国の真の運命は民主主義であった。彼の描いた民主主義は政治体制であるばかりでなく、平等主義の文明でもあった。

 フクヤマのように、この論理は今日ではあまりに決定論的に聞こえる。だが、トクヴィルが正しかったことが証明された。トクヴィルの時代には米国にしか存在しなかった民主主義は、北朝鮮のような国を除いて、程度の差はあれ、どこにでも存在する。中国はもちろん、大きな例外である。

 確かに、村で地方選挙が行われることがある。そこでは外国人オブザーバーがポチョムキンのような雰囲気のもとで招かれる。しかし、そうした地方選挙は都市を汚染しないためのように、へき地の村だけで行われる。さらに、共産党だけが候補者を推薦でき、選挙運動は禁じられている。中央政府は、中国人はどのように投票するか「学習」しなければならないと主張する。それは非常に時間がかかる教育プロセスである。

 また、トップの選挙は党内部で行われ、共産主義者同士で行われる。この人形劇場は民主主義の始まりというより、村での宣伝の道具であり、トップの幹部の延長や政敵を無血で追い出す方法でしかない。これは昔と比べられる進歩であるが、真の民主主義にはほど遠い。

 中国は高まる期待の法則と民主主義の運命から逃れるであろうか?旧体制のフランスから現代韓国までにいたる、中国と他の国との大きな違いは中国文化にあるのではなく、共産体制にある。中国にはブルジョワジーはいない。真のブルジョワジーは政治的権力から経済的に独立している。中国においては、中産階級のほとんどは党に属するか依存している。私有財産はほとんど存在しないし、民間の事業家のほとんどは党との関係に依存している。この擬制の中産階級は、党の独占に既得権益を有しており、民主主義を望んでいない。これはトクヴィルが想定できなかった新しい種類の社会である。

 それではマルクスの出番であろうか?トクヴィルは思想の優位を信じた。マルクスは、財と経済の決定的な力を信じた。トクヴィルよりもマルクスの方が、ほとんどが都市に住む、比較的豊かな中国の中間階級である党支持者と地方の貧しい人々の間の新しい種類の階級闘争を説明できるであろう。どちらの場合も、高まる期待であれ階級闘争であれ、中国がどうなるかは予想困難であるが、安定も調和的進化もなさそうに見える。

<< 憤青―新しい世代のネオコン民族主義 | ホーム | 世界の知識人100人ランキング >>


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

 BLOG TOP